現在、春闘の最中である。

 本来、春闘の主役は労働組合であるが、今年も、政府、さらには春闘において守勢に回るはずの経済界も声を揃えて賃上げを唱道している。経済界を代表する一般社団法人日本経済団体連合会の十倉雅和会長は、今年1月18日、「『社会性の視座』に立って賃金引上げを『企業の社会的責務』として訴え、多くの企業の賛同を得てきている。今年の春季労使交渉にあたっては、昨年以上の熱量と決意をもって取り組んでいく。」、「日本全体の機運醸成には、労働者の7割弱を雇用する中小企業における構造的な賃金引上げが重要であり、労務費を含む適切な価格転嫁が行われなければならない。適切な価格転嫁の実行が重要との認識を、発注元だけでなく、受注元に浸透させ、ひいては社会全体の社会通念にしていく必要がある。」などと発言されている(一般社団法人日本経済団体連合会ホームページhttps://www.keidanren.or.jp/speech/kaiken/2024/0118.htmlより引用)。

 十倉会長の上記発言にもあるように、特に中小企業においては、従業員の賃金引上げのため、その原資となる価格転嫁の実現が必要となる。

 以下では、公正取引委員会(以下「公取委」という。)が内閣官房と連名で令和5年11月29日に策定した「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」(https://www.jftc.go.jp/dk/guideline/unyoukijun/romuhitenka.html。以下「本指針」という。)において示された発注者及び受注者がそれぞれ採るべきものとされた行動や求められるものとされた行動のうち、特に注意すべきものと考えられる点や有用と考えられる点を検討する。

 

1 発注者側の注意点

(1)「発注者としての行動①」について

   まず、本指針では、「発注者としての行動①」として、発注者側に「①労務費の上昇分について取引価格への転嫁を受け入れる取組方針を具体的に経営トップまで上げて決定すること、②経営トップが同方針又はその要旨などを書面等の形に残る方法で社内外に示すこと、③その後の取組状況を定期的に経営トップに報告し、必要に応じ、経営トップが更なる対応方針を示すこと。」を求めている。

   これは、仮に受注者からの労務費の価格転嫁要請に応じなかった発注者が私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(以下「独禁法」という。)2条9項5号の優越的地位の濫用に当たるものとして課徴金納付命令を受ける等した場合や、下請代金支払遅延等防止法(以下「下請法」という。)4条1項5号(「下請事業者の給付の内容と同種又は類似の内容の給付に対し通常支払われる対価に比し著しく低い下請代金の額を不当に定めること。」。以下「買いたたき」という。)に当たるものとして勧告を受け、通常支払われる対価との差額分の受注者への返還を求められる等した上、経営トップが株主代表訴訟によって損害賠償を請求される等した場合に、経営トップが善管注意義務(会社法330条、同法402条3項、民法644条)ないし忠実義務(会社法355条、419条2項)に違反したか否かを判断する上で重要な要素となりうる。

   裁判所は、いわゆる「経営判断の原則」を背景に、会社に不祥事が発生したとしても、経営トップがその不祥事を把握していなかった場合には経営トップの善管注意義務を否定することも比較的多い傾向にある。しかしながら、本指針において上記のとおり経営トップが採るべき対応を具体的に示しているにもかかわらず、経営トップが価格転嫁を受け入れる方針の策定を怠り(あるいはそのような方針を策定したことの裏付けがなく)、また仮に一旦かかる方針を策定してもその後の更新を怠ったような場合には、経営トップの善管注意義務違反が認められやすくなるおそれがある。

   したがって、発注者側の経営トップにおかれては、万一ご自身が上記のような損害賠償を請求された場合においても、善管注意義務違反がないと判断されるための対策として、本指針の「発注者としての行動①」に沿った対応を採ることをお勧めしたい。

 

(2)「発注者としての行動②」と「発注者としての行動⑥」について

   本指針では、「発注者としての行動②」として、「受注者から労務費の上昇分に係る取引価格の引上げを求められていなくても、業界の慣行に応じて1年に1回や半年に1回など定期的に労務費の転嫁について発注者から協議の場を設けること。特に長年価格が据え置かれてきた取引や、スポット取引と称して長年同じ価格で更新されているような取引においては転嫁について協議が必要であることに留意が必要である。」などとしている。しかし、多くの取引先(受注者)がある中で、受注先からの何らの働きかけもないのに、発注者側が価格転嫁の協議の場を設けることなど現実的ではない。上記の「発注者としての行動②」は、あくまで発注者として望ましい行動を示したものであり、これを実行しなかったことをもって、直ちに優越的地位の濫用や買いたたきに当たることはないであろう。

   また、本指針は、「発注者としての行動⑥」として、「受注者からの申入れの巧拙にかかわらず受注者と協議を行い、必要に応じ労務費上昇分の価格転嫁に係る考え方を提案すること。」ともしている。これも、発注者として望ましい行動を示したものであり、これを実行しなかったとしても、直ちに優越的地位の濫用や買いたたきに当たることはないと思われる。

 

(3)「発注者としての行動⑤」について

   これに対し、本指針が「発注者としての行動⑤」として「受注者から労務費の上昇を理由に取引価格の引上げを求められた場合には、協議のテーブルにつくこと。労務費の転嫁を求められたことを理由として、取引を停止するなど不利益な取扱いをしないこと。」としている点には注意を要する。

   受注者が賃上げを理由に価格転嫁のための協議を求めた場合に発注者がこれを拒否することは、事実上価格転嫁の拒絶に等しいと評価されかねない。さらに、上記のような協議を求めたことを理由に、取引停止などの不利益な取り扱いをすることは、より一層違法性の高い行為となる。

   しかも、発注者が上記のような受注者としての行動をより深刻に受け止めなければならないのは、本指針が「受注者としての行動①」として「労務費上昇分の価格転嫁の交渉の仕方について、国・地方公共団体の相談窓口、中小企業の支援機関(全国の商工会議所・商工会等)の相談窓口などに相談するなどして積極的に情報を収集して交渉に臨むこと。」とするとともに、独禁法や下請法を所管する公取委や中小企業庁の相談窓口を明記している点である。上記の「受注者としての行動①」は、発注者との協議のために必要な情報収集をする手段の一つとして公取委や中小企業庁の相談窓口を列挙している体裁となっているものの、受注者が公取委や中小企業庁の担当者からの助言に従って資料等を整えて発注者に価格転嫁の協議を求めたにもかかわらず、受注者が正当な理由もなく協議に応じず,また取引停止をする等した場合、その旨を受注者が公取委や中小企業庁の担当者に報告・相談すると、それが排除措置命令や勧告の端緒となりかねないのである。

 

(4)発注者としての本指針の対応

   発注者側におかれては、価格転嫁の取組方針を策定し順次更新するとともに、本指針で示された発注者としての行動②以下を参考に、受注者から賃上げを理由とする価格転嫁の協議を求められた際には、取引停止などの不利益処分を採ることなくこれに応じるとともに真摯な対応を採られること、さらに真摯な対応を採ったことを裏付けるための記録を残すこと(発注者・受注者共通の行動②「価格交渉の記録を作成し、発注者と受注者と双方で保管すること。」)をお勧めする。

 

 

2 受注者側に有用な点

(1)本指針の受注者側に対する指南の内容

   本指針は、受注者側に賃上げを理由とする価格転嫁を具体的に指南している。

   まず、上記1(3)でも触れたとおり、本指針の「受注者としての行動①」として「労務費上昇分の価格転嫁の交渉の仕方について、国・地方公共団体の相談窓口、中小企業の支援機関(全国の商工会議所・商工会等)の相談窓口などに相談するなどして積極的に情報を収集して交渉に臨むこと。」とするとともに、独禁法や下請法を所管する公取委や中小企業庁の相談窓口を明記している。

   また、本指針は、「受注者としての行動②」として「発注者との価格交渉において使用する労務費の上昇傾向を示す根拠資料としては、最低賃金の上昇率、春季労使交渉の妥結額やその上昇率などの公表資料を用いること。」という資料の指南、「受注者としての行動③」として「労務費上昇分の価格転嫁の交渉は、業界の慣行に応じて1年に1回や半年に1回などの定期的に行われる発注者との価格交渉のタイミング、業界の定期的な価格交渉の時期など受注者が価格交渉を申し出やすいタイミング、発注者の業務の繁忙期など受注者の交渉力が比較的優位なタイミングなどの機会を活用して行うこと。」という協議申し入れのタイミングの指南、「受注者としての行動④」として「発注者から価格を提示されるのを待たずに受注者側からも希望する価格を発注者に提示すること。発注者に提示する価格の設定においては、自社の労務費だけでなく、自社の発注先やその先の取引先における労務費も考慮すること。」という価格提示の指南までに及んでいる。しかも、それぞれについて、実例も挙げられている。

   さらに、本指針は、「発注者・受注者共通の行動」として「価格交渉の記録を作成し、発注者と受注者と双方で保管すること。」(同②)等とも指南している。

 

(2)受注者側としての本指針の活用

   受注者にとっては、本指針に上記(1)のように具体的な指南内容が記載されているため、発注者に対する賃上げを理由とする価格転嫁の協議の申入れや発注者との協議の場面において、本指針の具体的な記載を引用して強気で発注者側に対峙することが可能となる。特に、本指針では「受注者としての行動①」において独禁法や下請法を所管する公取委や中小企業庁の相談窓口を明記している以上、受注者としては、積極的に公取委や中小企業庁の相談窓口を利用することが有用である。仮に発注者側が公取委等の助言内容や本指針に沿わない対応を採った場合には、資料を添えてその旨を上記相談窓口に報告し、発注者側への注意や指導、それでも改善がない場合には排除措置命令や勧告等の厳しい対応を採るよう求めることも可能となろう。

   受注者におかれては、上記のように本指針の積極的な活用を図ることをお勧めする。

 

3 さいごに

  以上のとおり、本指針は、受注者側にとっては強力な武器となりうる反面、発注者側にとっては真摯な対応が求められる内容となっている。本指針の対応に当たっては(受注者側には本指針に具体的な記載や相談窓口が設けられているものの)、価格転嫁の取組方針の策定、協議の申入れの方法ないし申入れを受けた場合の対応、具体的な協議の進め方、価格転嫁の根拠資料の作成やその反論資料の作成等、各社にとって必要な対応は異なりうるため、価格転嫁を求めたい受注者や価格転嫁を求められた発注者におかれては、弁護士へ相談されることをお勧めする。

  我が国が長期間にわたるデフレーションによる低成長経済を脱却し、適度なインフレーションを伴う経済成長の高度化を図るためには、賃上げとその原資となる価格転嫁が不可欠である。各事業者におかれては、自己の従業員の賃上げやその原資確保のための適正な価格転嫁を図られるとともに、他の事業者の従業員の必要十分な賃上げとその原資確保のための適正な価格転嫁を真剣に検討されたい。

                                                    以 上