1 はじめに

  新型コロナウイルスの感染収束により社会経済活動が徐々に回復しつつある一方で新型コロナウイルスに伴う補助金・協力金・融資その他の金融政策により通常の経済状況では生き残ることが出来なかった企業がいわゆるゼロゼロ融資の返済開始により存続が危うくなる事業者も少なくない。

  そのような存続困難な企業の選択肢としては、廃業・倒産等の自己破産を含む法的手続きへ移行することの外に企業や事業を第三者へ売却する(以下これらを総称して「M&A」という。)という選択肢が考えられるところである。また、新型コロナウイルスによる影響下においても経営努力等により順調に成長を続けている企業においてはむしろ新たな業界への参入や業務拡大のために自ら新規事業を立ち上げるよりも、既に形の存在する企業や事業を買い取る方法により参入する方がコストを抑えることが出来る可能性があり、積極的にM&Aを検討する事業者も多い。

  この点について、M&Aを実施するにおいては、通常は会計や法務のデューデリジェンス等により、リスクの洗い出しを行い、顕在・潜在リスクへの対処(場合によってはM&A対価への減額・増額の反映)を行い適正に行うのが最良の方法である。

  もっとも、上記のような本格的なデューデリジェンスの実施には多額の専門家への費用支出等が必要となるものであり、一定規模以上のM&Aの場合はそのような費用を支出して行われるが、他方で、日本の大部分を占める中小零細企業や個人事業に関するM&Aにおいては、本格的なデューデリジェンスが実施されることは稀である。

  そこで、本稿ではデューデリジェンスを実施しないM&Aの存在を前提として、いくつかの業界を例に挙げてM&Aにおいて留意すべき点について述べていきたい。なお、以下で記載する事項はあるまで留意すべき点の例示に過ぎず、本来であればデューデリジェンスを適正に実施すべきであるし、これらの留意点のみでリスク対処が十分という趣旨では無く、個別具体的な内容については弁護士等の専門家への相談が必要であるということは念のため付言しておく。

 

2 留意点

⑴ 起業ではなく、M&Aを選択する理由の確認

  そもそもM&Aを選択する理由がどこにあるのかという点は留意点を探索するにあたって重要である。例えば、新規事業であれば一から場所・従業員等の人・什器備品・取引先等の顧客・事業を行うための許認可等の取得が必要になるが、M&Aの場合には既に存在するものを引き継いで活かすことができる。

  そのため、新規起業ではなく、M&Aを選択する理由が従業員の確保であれば従業員の引継ぎの可否、取引先等の顧客の引継ぎであればその引継のその可否、事業を行うための許認可等であればその引継の可否が最も留意すべき点であるという視点になってくるであろう。

  そのような視点から以下では比較的小規模のM&Aが多いところである業界をいくつか挙げてそれぞれの留意点を例示していく。

⑵ 介護業界でのM&A

  今後、さらなる高齢社会へ向かっていく日本においては介護業界の需要が増加する傾向にあり、そこへの新規参入のためにM&Aを検討する企業は少ないと思われる。

  そして、介護業界においてM&Aを選択する理由としては、主には従業員等の人の確保、利用者等の顧客の確保、事業を行うための許認可等の確保が挙げられる。

  まず、介護事業を実施するためにはその事業を行うにあたっての人員規制等が行われており、一定の知識・経験(介護福祉士等の資格者)の確保が求められるが、昨今の人材不足により新規にそれらを確保することは容易ではない。そのためM&Aにより従業員を引き継ぐ方法が選択肢として存在する。ただし、ここで注意したいのは、運営主体である企業同士がM&A契約を締結し、その中に従業員の引継ぎを条項化していたとしても、その法的な効力は従業員には及ばないということがある。M&Aの形式が企業ごと(株式譲渡)の場合は雇用主たる企業の立場を引き継ぐため従前の雇用契約は継続されるが、事業譲渡の場合は雇用主たる企業の立場をそのまま引き継ぐわけではないので別途従業員との新たな雇用契約の締結が必要になる(ただし、会社分割による承継の定め等を利用する場合は除く。)。なお、承継される場合でも従業員がM&Aを契機に退職することは全くの自由であるため退職の可能性がある。つまり、ここで留意すべきは従業員の引継ぎはM&A契約書に記載があっても当然に各従業員の雇用契約が承継できるとは限らず、承継のためには各従業員の意思確認等を行いある程度の離職可能性を予測しておかなければならないということである。また、従業員の承継の問題に関連して、いわゆる三六協定の有無・従業員への給与・残業代・休日手当等の各種未払賃金債務が存在しないかどうかは必ず確認しなければならない。仮に、未払賃金債務が存在する場合はそれに対する対処をあらかじめ契約当事者間で協議し合意しておくことが必須となる。

  次に、利用者等の顧客の確保についてであるが、これは新規顧客を開拓するのではなく既に契約している利用者を引き継ぐことができるため売上予測を立てやすいという面でM&Aにメリットがある。もっとも、介護事業においては利用者とのトラブルは日常的に発生するものであり、そのようなトラブルが発生した場合等は利用者との契約(合意内容)が問題となる。そのため、M&Aを行うにあたっては、従前の企業と利用者との利用契約書・重要事項説明書等の締結書類がしっかりと交わされているか、内容に問題が無いかという点は十分にチェックしておく必要がある。また、利用契約書によっては連帯保証人(「キーパーソン」等と言われたりすることもある。)が規定されている可能性もあるが、連帯保証人の規定は近年の民法改正によりその要件が厳格化されており無効とされる可能性もあるので特に注意すべきである。その他にも介護報酬の請求をするために必要となるケアプラン等の必要書類が適切に作成されているかも重要である。万が一、これが適切に作成されていない場合、後に介護報酬の不正受給等で返還請求されるリスクや行政処分を受けるリスクまで存在することは忘れてはならない点である。

  そして、新規に介護事業を行うためには介護事業所許可の取得等の許認可が必要であるが、M&Aにより必要な許認可を引き継ぐことが出来れば新たにそれらを取得する必要は無くなるため、M&Aを選択するための動機になることは多いと思われる。しかし、そのような許認可については、そもそも適式に取得された許認可であるのか(必要な要件を偽って取得していないか等)、取得後にも必要な要件を充たして運用していたかどうか(これも後々に不正受給として返還請求のリスクを生む可能性がある。)、引継後にも要件を充たした運用が可能かどうか等の点を十分に確認しなければならない。また、これらを判断する資料としては、今までの監査の履歴等(集団指導や個別指導・監査の有無等)も十分に確認しておく必要がある。そして、事業譲渡の場合、特に許認可等が承継可能かどうかは管轄の役所等に要件を確認しておく必要がある(場合によっては承継ではなく新規申請や許可が必要になる可能性もある。)。

  なお、介護報酬は請求から入金までの間にタイムラグ(約2か月)があることも注意すべきである。報酬請求から入金までの間にタイムラグがあったとしてもその間の従業員への給与、テナント賃料、買掛先への支払は発生するため、その点については資金繰りにおいて考慮しておく必要がある。

⑶ 飲食業界でのM&A

  今般の新型コロナウイルスの影響において特に明暗を分けたのが飲食業界であったが、休業補償金や協力金が途絶えたことにより譲渡を希望するところも多く、それを買収してさらなる新規開拓を狙う企業や事業主も多いように思われる。

  そして、飲食業界でのM&Aにおいては、主には従業員等の人の確保、顧客の確保、許認可等の確保が挙げられる。

  これらの点の多くは上記⑵の介護事業のM&Aにおける留意点と共通する場合が多いので、ここでは飲食業界において特に留意が必要な点を挙げるものとする。

  まず、近時の特有の問題点として、新型コロナウイルスの影響下にあった際に休業補償金、協力金、持続化給付金等の給付金の点がある。これらについては当然ながら受給のためには一定の厳格な要件が定められていたものであるが、昨今の報道でも明らかになっているとおり一部の飲食店等では要件を充足すると偽って受給をしていたということがあるようである。そして、それらの給付金等が無くなったことにより売却を検討している飲食業においては、要件を充たさないうえでの申請をしていた者の存在の可能性もある。仮に、そのような問題に気づかないままM&Aを行ってしまうと後に不正受給として返還請求を受けてしまう可能性がある。それゆえ、それらについての申請や受給の有無、その真正の確認が必須となる。

  次に、飲食店においては食品衛生法上の許可はもちろんのこと、深夜まで酒類の提供を行ったり、接待を伴ったりする場合には別途風俗営業法等の許可が必要となる等の複数の許可が必要になるケースがあるので、営業形態に伴いどのような許認可が必要かという点には十分に留意して確認する必要がある。

  さらに、賃貸テナントをそのまま引き継ぐことを想定している場合は、家主との間において賃貸借契約の引継ぎに関する家主の同意が必要となることも注意が必要である。

⑷ 不動産業界でのM&A

  昨今の不動産価格の上昇に伴い不動産業界への参入を考える企業も存在する。

  不動産業界においても従業員や許認可関係については既に述べて来た部分と業界が異なっても共通するものであると考えられるので、ここでは特に次の点を留意点として挙げたい。

  不動産販売や仲介を主とする場合、過去に取引や仲介を行った顧客とのトラブルは時間差を持って顕在化する可能性がある。例えば、数年前に売却した住居に欠陥があった場合等が挙げられる。そして、このような場合においては売却時等の売買契約書や重要事項証明書の存在及びその内容が適法になされているかという点が重要となる。加えて、仮にそのような請求が過去の顧客からなされた場合のM&A契約当事者における取り決めを明確化しておくことが重要になってくる。

  また、従業員の引継ぎにおいて特に注意しなければならないのは、宅建士等の宅地建物取引業者として継続するための有資格者の雇用継続が可能であるかという点は留意しなければならない。もし、買い手側においてそのような資格者を確保できない場合は、別途資格者を確保する等の適法性を確保するための手段の構築が必要になり、そのためのコスト負担も少なくない可能性があるからである。

  さらに、不動産業界においては、営業活動が重要であるが、そうであるがゆえにM&Aの対象となる会社の接待交際費等を過剰に計上してしまっている可能性があり、その場合は税務リスクも存在する。

⑸ 共通 負債関係のチェックの重要性

  上記で述べて来たとおり各業界におけるM&Aを行うための留意点は多岐にわたる。しかし、M&Aを行うにあたって必ず持っておくべき視点としては、負債関係のチェックを十分にしておかなければならないという点である。

  負債関係とは借入金(金融機関からの借入のみならず役員からの借入金も十分に注意が必要)等の借金のみならず、労働者への未払残業代等の未払賃金や既に述べた何らかの不正受給の場合の返還請求等である。そして、決算書等に記載されていない簿外債務についても発見された場合の対処方法等をあらかじめ合意しておくことが求められる。

  また、特に留意しておかなければならない潜在的な負債リスクとしては、消費税や源泉税に関する公租公課リスクや従業員の社会保険料の支払滞納の有無については十分に確認しておかなければ、M&A後に多大な金銭支払いリスクに見舞われる可能性もある。

  このように負債関係は業界にかかわらずM&Aにおいては共通して慎重に確認すべき事項であるということは忘れてはならない。

 

3 さいごに

  上記で挙げた内容はM&Aにおいて留意すべき点のごく一部に過ぎず、他にも留意すべき事項は極めて多岐にわたる。実際のM&Aではその業態等を把握して考えられるリスクを抽出し、最悪の状態を想定し、それへの対処方法等を検討し、契約書に記載していくという作業が必要になる。そのため、たとえ本格的なデューデリジェンスを実施せずともM&Aの規模や対価にかかわらず、M&Aを行うことを考えている企業や個人におかれては弁護士への相談をしながら進めることを強く勧めるものである。ただ、M&Aを考え始める端緒として上記で挙げた点等を留意して頂くことは重要であると考えている。

  それゆえ、今後の経済の活性化のためのM&Aにおいて本稿が少しでも役に立つことを願っている次第である。

 

                                以上